一 鍼灸師として
私は鍼灸師絵である。 高校で英語を教えるのが本業で、31年目を迎えたが、51歳で獲得した「鍼灸師」国家資格が最も大切に思えている。これを書いている今も、自分で自分に鍼をさしている。顔だ。長男妊娠時、臨月で発症した右顔面神経麻痺は、医療ミスで手遅れとなり、鍼灸と運命的な出会いをした。
時は流れ、自らが鍼灸師の国家資格を取り、自らを癒す術を得た。公務員なので、家族限定で施術している。
二 叔父との出会い
叔父 石川 重雄 とは、 結婚式で出会った。川柳作家、川柳選者として活躍していた。長く朝日新聞の川柳選者を務めた。
「 M がいる。Tがいる。窓の明るさ 」
と記念に詠んでいただいた。その色紙を我が家のリビングに大切に今も飾っている。結婚後、義理の両親に連れられて、叔父宅を何度か訪ねた。質実剛健を絵に描いたような生活ぶりで、
「 失うものがないから 強い 」
と よく言われた。公務員家庭で育ち、公務員と結婚した公務員の私には、とても新鮮な生き方だった。正直に、誠実に、与えられた生を生き抜いておられる。 どんどん魅かれていった。
三 大空襲
6月20日は、静岡が大空襲に見舞われtら日である。もう誰もそんなことを大きな声で言わない。 どんどん忘れられていっている。私は、そのことをどうしても紙面に残したくて、多忙を極める教員生活の中で、この67月に書こうと決めた。
その日の空襲はとてもひどく、叔父たちは安倍川のほうへ逃げていた。 義理の母は、実母に言われ、
「焼夷弾が落ちてきたら、身体を川の中へ沈める様に 」
というお言葉通り、安倍川に半身浸かっていたそうだ。
叔父は防空号まで来て、女性が入ろうとしているので、場所を譲ったそうだ。そして爆弾が顔にあたった。大火傷である。弟である私の義理の父が、リヤカーで手越の病院まで運んだ。とても見られた顔ではなかったらしい。義母の話では、私の夫が幼いころ、叔父の顔を見ては怖がるので、申し訳なかったらしい。男性であっても、顔に火傷を負うということは、どれほどのダメージだろうか。
叔父の反戦への思いは、その空襲が原点になっているように思う。
終戦後、結婚をし、二人の娘に恵まれて、平穏に暮らしながらも、反戦への思いは強く、そのありのたけを川柳に詠んでこられた。反戦歌はもちろん、日常の矛盾を鋭く突くその句は多くの人を魅了してきた。才能のあるア田茂のよい人だ・
四 静岡大空襲 ウィキぺディアより引用
静岡大空襲(しずおかだいくうしゅう)は、太平洋戦争末期の一九四五年(昭和二〇年)6月19日深夜から20日未明にかけて、アメリカ軍のB-29爆撃弾により旧市街地が受けた空襲である。アリアナ初頭から飛び立ったアメリカ軍第314航空団の超要塞と名付けられたB-29大型戦略爆弾機137機は伊豆半島付近から本土上空に侵入、伊豆半島上空を北上し、富士山手前上空で旋回し静岡市上空に向かうが、一旦静岡し街上空を通過し、御前崎から再び静岡市がい上空を通過し、御前崎上空へと向かった。3時間余りの爆撃で投下された焼夷弾は13,211発、被害は死者1955人、
負傷者5000人、焼失戸数26891戸に上った。この静岡第九州を含め、、旧静岡市は
1944年(昭和19年)暮れから終戦までに合計26回の空襲を受けている。
経緯[編集]
兵器等製造事業特別助成法(昭和17年(1942年)2月13日法律第8号)に基づき、「住友金属工業プロペラ工場」(高松地区)及び「三菱重工業静岡発動機製作所」(小鹿地区)の二つの官設民営軍用機関連工場の建設が進められた。この建設工事中に弥生時代の登呂遺跡が発見され、伊東忠太達により、短期間の緊急発掘調査が行われたものの、十分な調査を経ずに工事が再開され[4]、翌昭和18年(1943年)には生産が開始された。
昭和20年(1945年)3月に東京大空襲(10日)、名古屋大空襲(12日)、大阪大空襲(13日)、神戸大空襲(17日)と日本の大都市を破壊したアメリカ軍は、その後、地方主要都市に目標を移した。アメリカ軍資料によると選定は昭和15年(1940年)国勢調査の人口に基づくものであり、静岡市は15番目であった。同年4月7日の空襲により、住友金属及びみつ三菱重工の量軍需工場は機能を停止していた。空襲時、西伊豆空襲時西伊豆一体や沼津市、富士市の辺りからは静岡市街が真っ赤に燃えているのが解ったと云う。 また、山を挟んだ榛原地域などからも静岡上空が真っ赤になっているのが見えたと云う。 空襲の後、丸焼けになった静岡市街に米軍機が飛んできて、「早く降伏すれば贅沢ができる」の文字と、御馳走の写真が刷られたビラをばら撒いた。B29爆撃機は、富士山を目標に本土へ飛来し飛来てくるので、静岡県、特に駿河湾沿岸域は、警戒警報や空襲警報がひっきりなしに鳴ったという。また、空襲以外にも駿河湾に進入した米軍艦の艦載機グラマンが、数機編隊で次々と駿河湾沿岸地域へ飛来し、機銃掃射や波状攻撃を行った。工場や港は勿論、農作業中の人達なども狙われ、生産活動は停止。多くの市民が犠牲になったにもかかわらず、軍の命令で被害情報は全て秘密とされた。静岡赤十字病院の周囲も火の海となり、病院前の街路樹もすべて焼け焦げてしまったが、ただ1本のクスノキが3年後に葉をつけて蘇り、今も空襲を見届けた証人として青葉をshゲラセている。
1.
2. ^ 静岡県『静岡県の百年』、1968年(静岡済生会総合病院詳細年表[4]2008年4月21日閲覧による)
3. ^ 静岡平和資料センター[5]『常設展』ページより(2008年4月21日閲覧)
4. ^ 篠田信夫「静岡済生会病院10年のあゆみ」(「静岡済生会病院10周年記念誌」所収)(静岡済生会総合病院詳細年表[6]2008年4月21日閲覧による)
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
この「静岡大空襲」は、日本の歴史に関連した書きかけ項目です。この記事を加筆・訂正などして下さる協力者を求めています(P:歴史/P:歴史学/PJ日本史)。 |
||||
この「静岡大空襲」は、戦争に関連した書きかけ項目です。この記事を加筆・訂正等して下さる執筆協力者を求めています(P:戦争/PJ軍事史)。 |
||||
<img
src="//ja.wikipedia.org/wiki/Special:CentralAutoLogin/start?type=1x1"
alt="" title="" width="1" height="1"
style="border: none; position: absolute;" />
「http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=静岡大空襲&oldid=51664653」から取得
カテゴリ:
こうして、見てくると、静岡に二八年暮らしているのにあまりにも、静岡のことを知らない自分がいる。情けない。この自然に恵まれた、美しい街が丸焼けになった日々があったのだ。私はもうすぐ五六歳になる。 先日、叔母の葬儀で、久しぶりに叔父に会い、
「 英語よりも 伝えてほしいものがある。」
と言われた。 本当にそうだ。戦争世代が、この世を去っていく。悲しいけれど、歴史は科学であり、それは繰り返されるという法則がある。きっと、戦争が起こるのだろう。でも、私たちが声を上げれば、何かが変わり、若い人が命を落とすのを食い止められるかもしれない。その思いで書いている。
五 静岡平和飼料記念館
空襲・戦争の記憶を引き継ぐ――静岡平和資料センター |
2009年9月14日 |
|
ぐ、様々な資料を収集し展示していますが、このセンターの設立の経過からお聞かせください。 ―――静岡市の理解と協力はありがたいですね。「つくる会」とその活動が市民から支持を得られているからだと思いますが、心がけていることなどをお聞かせください。 ―――センターには静岡の地での戦争関連資料がたくさん集まっているので、静岡の市民や小中学生などの学習の場として重要な役割を果たしているのでしょうね。 ―――センターにはいろいろなところから貴重な資料が集まってくるのではないでしょうか。 ―――「つくる会」としては今後とも公的な平和資料館の建設を求めていくということでしょうか。 ―――「つくる会」の活動は日本国憲法の理念に基づくものとされていますが、浅見さんの憲法に対する思いをお聞かせください。 ―――本日はありがとうございました。センターの一層の発展を期待したいと思います。
|
静岡市葵区伝馬町10-25 中央ビル'90 2F
TEL/FAX 054−271−9004
【絵:国民学校4年の村手君が描いた戦争。“優”をもらいました。】
70年前、日本は中国や米英と戦争をしていました。そのころの子どもたちはどのようなくらしをしていたのでしょうか。今回の展示では、実物資料やパネルで戦争中の子どもたちのくらしを紹介します。
ご家族のみなさんで、クラスのみなさんでそろっておいでください。平和に暮らせることの大切さをいっしょに考えましょう。
2014年4月20日、柳原伸洋さん(東海大学講師)【写真円内】による講演とワークショップを当センターで行いました。
グーグル・アースのストリート・ビューを使いリアルタイムでドイツの街並みを映しながら、時にはタイムスリップして過去の写真を交え、ドイツの空襲記念碑がどのような風景の中に置かれているかを示されました。インターネットでつながる現在は、そのようなこともできるということに、「オーッ!」と、驚きの声が上がりました。
この日の参加者は35人。ワークショップでは5つのグループに分かれ、熱気のこもった討論を展開しました。【写真左:若い世代も参加して盛り上がるワークショップ】
2014年3月16日、東京大空襲・戦災資料センター主任研究員の山本唯人さん【写真円内】による「ドイツ空襲被災都市を訪問した旅」の講演会を当センターで開催しました。
ドレスデン・ベルリン・ハンブルクを訪れた日本の空襲体験者が、ドイツの空襲体験者と交流した様子をたくさんの写真を使ってお話されました。
山本さんによるドイツの風景、東京の風景の中に存在する戦争の記憶の紹介に対し、参加者から静岡の風景、記憶が語られ、暖かい対話が交わされました。【写真左:30人が参加した当日の様子】
【写真:空襲で静岡市中心商店街の七間町も廃墟となった。夏の日差しが照りつける中を人々は行く。敗戦直後、昭和20年8月に小此木武氏撮影】
□ 企画展示「空襲を伝えるドイツの都市‐ドレスデン・ベルリン・ハンブルク」は終了しました。
□ 常葉大学生が「清水空襲展」を開催しました。(2013年12月7日〜9日)
□ 「明日へ…2013年11月号」(静岡平和資料館をつくる会会報)を発行しました。
□ 「2013平和を考える戦争遺跡めぐり」を実施しました。(2013年10月20日)
□ 「戦争体験を聞くつどい」を開催しました。(2013年8月18日)
□ 静岡市と共催で巡回平和祈念パネル展を実施しました。(2013年7月22日〜8月29日)
□ 静岡空襲を朗読劇で語り継ぐ市民グループ「ミッション・ゲルニカ」が新作を発表。(2013年6月20日)
□ 小学校の先生方へ 小学6年社会科・教材セットを新規作成しました。
□ 小学校の先生方へ 教材セット「ちいちゃんのかげおくり」「一つの花」を貸し出します。
□ 「第24回国連軍縮会議in静岡」に協力して空襲関連展示を開催しました。(2013年1月30日〜2月1日)
□ 当センターへの団体見学、学校への出前(出張)授業を専門スタッフがお引き受けします。戦時資料の貸出しもしています。
□ 静岡平和資料センター開館日に1ヶ月のうち最低半日からお願いできるボランティアスタッフを募集しています。お問い合わせは、こちらまで。
団体見学は閉館日、開館時間外でもお受けします。電話、メールで事前に予約をお願いします。ご利用案内もご覧ください。
【写真:空襲の話を聞く静岡大学院生(左)・美和小学校の生徒(右)のみなさん】
【写真:センターを訪れた静岡県立大学の学生とセンター職員とのミーティング】
市民有志が「静岡平和資料館をつくる会」を結成し、静岡市長に平和資料館の設立 を要望してきましたが、今日まで実現に至っていません。しかし、平和資料館が設立されるまでの過渡的な措置として、「静岡平和資料館をつくる会」が市の助成を得て民間施設を借り、会員によるボランティアで「静岡平和資料センター」を運営しています
。
「静岡平和資料センター」では戦争を知らない世代に戦争の惨禍を語り継ぐとともに、平和への思いを新たに図ることを基本に、静岡・清水の戦争にかかわる事実を静岡・清水空襲を中心に市民が遺した実物資料・体験画・写真、米国立公文書館の発掘資料などで展示しています。【写真:米爆撃機が撮影した静岡空襲で炎上する駿府城跡周辺/米国立公文書館所蔵・工藤洋三氏提供】
静岡空襲
1945年(昭和20年)6月19日の午後6時(日本時間)過ぎ、空の要塞といわれた124機の超大型重爆撃機B-29がグアムを発進。硫黄島上空から伊豆七島の神津島を経由、伊豆半島西岸の波勝崎に達し、そこから一気に静岡を襲いました。
攻撃時間は20日午前0時51分から午前2時54分。照明弾の他は焼夷弾ばかりが約868トン投下され、市街地の3分の2が焼失し、死者は1952人とされます。【写真:静岡空襲で焼け野原となった静岡市。左上は安倍川、右上は賎機山。中央を斜めに本通り。】
清水空襲
1945年(昭和20年)7月7日に133機のB-29が清水を攻撃。午前0時33分から午前2時10分までの間に、1,030トンの焼夷弾が投下され、市街地の半分が焼失し、死者は351人とされます。【写真:空襲3日後に米軍機が撮影した清水港・巴川周辺。白いところが焼失地/米マクスウェル空軍基地歴史資料室所蔵・工藤洋三氏提供】
静岡・清水の空襲 空襲死没者名簿 静岡空襲の体験画(80点)
静岡はなぜ空襲されたのでしょうか、アメリカ軍は私たちの街を焼き尽くすためにどのような準備をしたのでしょうか、焼夷弾が降り注ぐなか…人々はどうしたのでしょうか。
こうしたことがアメリカ軍の資料やB-29の来襲を監視していた防空監視哨(ぼうくうかんししょう)の記録、空襲体験者の証言などから明らかになってきました。B−29による無差別空襲の悲惨を貴重な米軍フ
ィルムとCG動画で再現しました。子どもからお年寄りまで、空襲のことがよく分かると好評をいただいています。
開館日には映像で見る「静岡空襲」を大型画面で常 時上映(21分)しています。
【写真左:葵区駿府城公園にある旧日本軍の静岡歩兵第34連隊記念碑】
【写真右:清水区三保にある海軍特攻艇「震洋」の格納庫跡】
東日本大震災の津波被害により、休館している釜石市戦災資料館の一日も早い再開を私たちは応援しています。
津波により被災した釜石市郷土資料館が、平成24年4月に全面開館し、戦災資料館からレスキューした艦砲射撃の砲弾などを展示しています。
●このホームページの写真・文章の無断転用はできません。
*Copying photos and sentences without permission is prohibited